「自己決定の自由」と優越的利益説の論理

被害者の承諾を優越的利益説で処理するために、法益の要保護性の否定ではなく、自己決定の自由との比較衡量を持ち出す見解がある。

この見解は違法性阻却の一般原理につき優越的利益説を採用し、正当防衛などの場面でも法益の要保護性の否定という枠組みではなく、一旦別の利益(正当防衛なら法確証の利益)を措定し、それとの比較衡量によって違法阻却を考える

これは違法性阻却事由を一般的に説明する枠組みとしては一貫しているし、一見すると自己の生命を放棄できない理由をうまく説明している点では優れているように見える(※)。

※よく言われるような、「生命放棄するとその後の自己決定の自由が回復不可能になるからだ」という説明は、説得力に乏しいと思う。「自己決定の自由」とは自分にとっての価値秩序を自由に形成できるという意味なので、行為時に「その後の可能性」よりも「現在の生命放棄」にこそ価値があると考えた人には何の論理的矛盾もない。むしろ、「その後の可能性の保護」を法が強制するのは、この自由への侵害だとすらいえる。結局のところ、ここで現れているのは国家による「あるべき(=国家にとって望ましい)個人の価値秩序」の押し付けである。

 

とはいえ、優越的利益説もまた、「生命は自己決定の自由に優越する」という前提にたっており、その実質的な説明が必要だという点は変わらない。違うのは、「生命は自己決定の自由に優越する」という命題の正当化を、国家がそのように解しているという国家側の論理で説明できる点にある。

すなわち、「自己決定の自由」を比較衡量可能な利益として捉えるということは、国家による法益の序列化の対象となる、ということだ。「自己決定の自由」を評価する主体は国家なのだ。突き詰めると、ある利益を「法益」として国家による保護対象とするか否かの選択権は、国家の側にあるということだ。だから、「国家にとって生命保護の方がメリットがある」という国家の論理を持ち出せば、それで正当化は完了する。

他方、「自己決定の自由」の論理的・内在的な制約という観点から生命放棄を禁止する立場は、あくまでも国家による評価とは別の領域に「自己決定の自由」を置いている。つまり、ある利益を「法益」として国家による保護対象とするか否かの選択権は個人の側にある(自己決定の自由)のだ。被害者の同意による違法性阻却は、まさに国家による保護対象から当該利益を被害者の意思一つで除外できることに根拠がある。だから、第一時的な選択権のある被害者の意思に反して、国家の論理で正当化することは原理的に不可能なのだ。

こう考えると、一見優越的利益説の方がすっきり説明できているようで、実はその背後に不当な前提(「国家による評価」の優先)が紛れ込んでいるのがわかる。

なぜこの前提が不当だといえるのか?

なぜなら、「自己決定の自由」が権利として認められているのであれば、それは国家を制約する原理のはずだからだ(それが憲法上の「権利」の意味である)。先程、「自己決定の自由」の論理的・内在的な制約という観点から生命放棄を禁止する立場について、国家による評価とは別の領域という表現を使ったが、それこそが憲法なのだ。「論理的・内在的な制約」と解する立場は、この意味では正しい。

言い換えれば、「自己決定の自由」が憲法上の権利であるならば、それは国家による要保護性の比較が可能な対象としてはいけない。さもなければ、憲法上の「権利」という前提に矛盾するのだ。

 

ただし、このような論拠で比較衡量説を否定するならば、通説的見解が生命放棄を認めない理由付けは別に必要になる。先述したように「生命放棄するとその後の自己決定の自由が回復不可能になるからだ」という説明は無理だからだ。しかも、上記のような国家側の理論構成以外のしかたで、生命放棄を認めない理由付けを与えねばならない。さもなければ、結局は法確証の原理を独立利益とする比較衡量説と同じく不当な前提を抱え込むことになる。

可能性としては、「生命放棄そのものが他者の権利への侵害となるため、人権相互の内在的制約に服する」という方向で理屈をひねり出すことが考えられる。これもかなり厳しい気がするが、国家論理による制約を正面から認めるよりは、人権のお題目に沿った落とし所だと思う。