富田恭彦のバークリーに対する批判【哲学読書メモ】

富田恭彦先生といえば分析哲学とかローティーに関する著作の印象が強いけど、ロックやバークリーについての著作もある。ロックやバークリーの観念論に対して想像以上にちゃんとした研究をなさっているみたい。

でもそんな冨田先生のバークリーに対する批判がいまいちよくわからない。

バークリーは(ロック的な)「観念」という言葉を適切に使用できないという批判をしているが、実際のところ、「観念」という言葉をロックとは違う意味で使うことの何が問題なのだろうか?

バークリーは「観念」を再定義し、その上で自らの見解を開示しているのではないのか?

そのような議論は自然だと思われるし、こういう議論構造の何が問題なのだろうか?

そこがわからないので、冨田先生の議論自体は明瞭なのだが、その重要性が見えない。

「観念」という言葉は外部の存在を前提している、というのは、日常用語や学説史としてはそうなのかもしれないが、それは「『観念』という言葉を用いるのは不適切だ」という用語上の混乱に過ぎない気がする。

それはバークリーの思考の歪みではなく、誤解を招きやすい表現法だったというだけだと考えることもできるのではないか。というか、私は真っ先にそう考えた。そう受け取るのが自然ではないのか?

あるいは、「観念」をバークリーのように使うことが、バークリーの理論的前提と矛盾でもしているのだろうか?

たとえば、従来の「観念」語法の特徴を、別の箇所で論証に使っているという具合に。

それならたしかに概念の混乱といえるので、「歪み」と表現できるだろう。でも、そういう指摘があったかどうか。私の記憶にはないのだけど。

・・・もう一度読み返してみるかなぁ。