無知の知について

ソクラテスは「無知の知」をどのような文脈で話したかというと、「知者と呼ばれている人も、結局は本当に知っているわけではなかった。その点では自分と変わらない。むしろ、知らないのに知っていると思っている人よりは、知らないし、また知らないとわかっている自分の方がまだまし」という状況においてだ。

ここから、「本当に何事かを知っている」のは神だけであり、人間はせいぜい知については何の価値もないと自覚している(無知の知)ことがせいぜいだ、という達観的な立場がでてくるわけだ。

これは言い換えれば、ソクラテスが意味する「知」の内実は、人間には到底不可能な内容であるということだ。ソクラテスは「知」をそれほどまでに強い意味で用いていたということだ。

そして、それだけのことにすぎないのだ。

後にイデア論がプラトン的に解釈されたソクラテスによって提出されるが(それを言えば、ソクラテスのものと言われる考えのすべては、プラトン的なフィルターを通したものだがそれはさて置き)、そういう活動が意味を持つのは、「神の知」には届かなくても、人間が持ちうる知の中に、よりよいものと良くないものがあるという考えだからだ。つまり、不完全な人間の考えの中にも何らかの価値基準によって優劣が決まるという発想があるからだ。

故にソクラテスの「無知の知」は、「神様のような知の不可能性」と、にもかかわらず人間にも可能な「(ソクラテスが用いた意味とは)別の意味で」より良い知があるという意味合いを持ってると思う。

このように考えると、「無知の知」を大上段に構えてひたすら他者批判に使うのは、ソクラテスの意図ともそこに含意される基準転換の意味合いともあわないと思うんだが、どうだろう。