評価規範と名宛人

評価規範が名宛人なき規範だとは、論理的には限られていない。

それは人間に対してこれこれの状態をこのように評価せよと命じていると解釈できる。その場合、「規範」の意味に、命令が含まれていることになる(規範はすべて、ある意味で命令規範。ただし、いわゆる「評価規範/命令規範」の対立軸とは異なる抽象度の話。要するに、評価命令か結果回避命令かということ)。

この場合、評価者と独立に規範的評価が存在しないことになるから、規範的評価についての反実在論とも言えそうな気がするw

このように解しても、現実として規範が常に人間とともにあることを考えれば、矛盾は生じないかと。

ちなみに、これは裁判規範という意味ではない。評価規範の名宛人は裁判官だけにとどまらない。自己の行為を選択する前提として、その法的評価を意識する行為者はいくらでもいる。評価規範であることと裁判規範であること、判断資料の基準時などの問題は、独立した別個の問題である。

もっとも、通常「評価規範」を持ち出す論者は、端的に名宛人なき「評価規範」を認めているように思われる。あるいは、命令ではない評価規範を。というのも、行為者の認識を基礎にしないと命令に従う可能性は確保できないので、不可能を命じる可能性を排除できないから。しかし、それは行為者ごとの違法評価になるので、人的不法論に接近するわけで、物的不法論者はそういう理解をしていないよね。

まあ、戯言ですが。

ヴェルツェルの翻訳

ヴェルツェルの規範論や哲学的著作はいまだに価値を失っていないにもかかわらず、なぜか日本にちゃんとした翻訳がない。これは学問的にまずいことなのではないか。きちんと哲学的側面にも光を当てた翻訳が必要な気がする。

そもそもブレンターノらからの影響により、志向性概念を軸に行為の存在論的構造を考えてきたのがヴェルツェルなのだから、フッサール的な現象学との思考方法の異同とか、現代の英米分析哲学における行為論との比較検討など、いくらでも面白そうなテーマはあると思うのだがどうか。

そういえばルシュカがそんな分析哲学系の行為論からインスピレーションを得た感じの遡及禁止の論文を書いていたような気もするが、記憶が曖昧。

たしか成文堂から行為論に関する比較的新しい研究書が出ていたと思うけど、そういうニーズがいまだにあるのだから、しっかりとしたヴェルツェル翻訳を出して欲しいなあ。

※今検索してみたら出てきた。この本ね。

行為概念の再定位

昔出ていた本は基本的に入手困難だったり、古書店で見つけても状態がひどすぎるものばかりなんだよね。日に焼けすぎて判別が難しくなっている表紙とか、触ると破れてしまいそうな紙面とか、購入をためらってしまうよ。少部数でもいいから発行してくれないかな。

まあ、一応注意しておくけど、基本的にこの文章はメモ書きなので、無責任に書き散らしているだけだから、鵜呑みにしちゃだめですよ。眉に唾つけて読んでくださいw

無知の知について

ソクラテスは「無知の知」をどのような文脈で話したかというと、「知者と呼ばれている人も、結局は本当に知っているわけではなかった。その点では自分と変わらない。むしろ、知らないのに知っていると思っている人よりは、知らないし、また知らないとわかっている自分の方がまだまし」という状況においてだ。

ここから、「本当に何事かを知っている」のは神だけであり、人間はせいぜい知については何の価値もないと自覚している(無知の知)ことがせいぜいだ、という達観的な立場がでてくるわけだ。

これは言い換えれば、ソクラテスが意味する「知」の内実は、人間には到底不可能な内容であるということだ。ソクラテスは「知」をそれほどまでに強い意味で用いていたということだ。

そして、それだけのことにすぎないのだ。

後にイデア論がプラトン的に解釈されたソクラテスによって提出されるが(それを言えば、ソクラテスのものと言われる考えのすべては、プラトン的なフィルターを通したものだがそれはさて置き)、そういう活動が意味を持つのは、「神の知」には届かなくても、人間が持ちうる知の中に、よりよいものと良くないものがあるという考えだからだ。つまり、不完全な人間の考えの中にも何らかの価値基準によって優劣が決まるという発想があるからだ。

故にソクラテスの「無知の知」は、「神様のような知の不可能性」と、にもかかわらず人間にも可能な「(ソクラテスが用いた意味とは)別の意味で」より良い知があるという意味合いを持ってると思う。

このように考えると、「無知の知」を大上段に構えてひたすら他者批判に使うのは、ソクラテスの意図ともそこに含意される基準転換の意味合いともあわないと思うんだが、どうだろう。