『アウグスティヌス <私>のはじまり』

アウグスティヌス―“私”のはじまり (シリーズ・哲学のエッセンス)』を読了。
シリーズ哲学のエッセンスの一冊。

かなり現象学的な議論のしかただなと思って読んでいたのだが、
富松保文氏の著者紹介やあとがきを読んでいたら、どうもフッサール等を読んでいる人らしい。
やはり現象学系だったんだなぁと納得。

それにしても、告白をこの様に読み解けるというのはスリリングで面白い。

とりわけ、アウグスティヌスの読解の補助線として、チンパンジーや幼児の自己認知といった認知科学の話題を参照するとは意外だった。正直、アウグスティヌスのテキストからはずいぶん離れているような気もするが、『告白』からこういう議論を取り出す手際よさには感心させられる。

あと、自分自身を認識するために他者を必要とするというのは、いかにもヘーゲル的に響く論点でもあるなと思った。

個人的に、内と外が互いを参照しあっているという指摘は、縁起の思想に通じるものがあるような気がした。もっとも、それではここで議論しているような内心などというものは「空」である事になりそうだがw

栗原隆『ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法』

栗原隆『ヘーゲル 生きてゆく力としての弁証法(シリーズ・哲学のエッセンス) 』を読みました。
ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法 (シリーズ・哲学のエッセンス)
ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法 (シリーズ・哲学のエッセンス)
ヘーゲルの最重要概念ともいえる弁証法についての説明ですが、思ったよりもしっかりした内容で、ヘーゲルの思想についてあまり詳しくない私などにはかなり参考になりました。
「否定」とか「矛盾」といった言葉を現代論理学の意味では使っていないという一文は、当たり前だけどはっきり書いてくれてたのでひと安心w

それにしてもこのシリーズ哲学のエッセンスは、少ない頁数ながらも焦点を絞って論じているので、良い本が多いと思いますね。プラトンとかクリプキとかデイヴィドソンとか。フッサールも面白い視点でまとめられていてよかったですし。

参考文献とコメント

あと、個人的な覚書として、巻末参考文献に掲載されていた書名をメモ。あとコメントも適当に。

細谷貞夫『若きヘーゲルの研究』
藤田正勝『若きヘーゲル』
・青年期ヘーゲルという問題についてだそうです。

加藤尚武『ヘーゲル哲学の形成と原理』
・「日本のヘーゲル研究を根本的に刷新して、世界的な水準にまで引き上げた記念碑的な研究」とのこと。ガチの必読文献らしいです。
同『哲学の使命――ヘーゲル哲学の精神と世界』
・「ヘーゲル哲学体系を解体、再構築することによって、体系期ヘーゲルの根本問題を解明した論文を収める」とのこと。

寺津國生『哲学の欲求――ヘーゲルの「欲求の哲学」』
佐藤康邦『ヘーゲルと目的論』
久保陽一『ヘーゲル論理学の基底』
高山守『ヘーゲル哲学と無の論理』
・いずれも日本を代表する研究者による野心的な作品らしい。野心的ということなので、必ずしも解釈自体への賛同は少ないのかもしれない。まあ、哲学の分野で解釈に完全に賛同できるようなケースは少ないでしょうからね。そこは仕方がないことです。

山崎純『神と国家――ヘーゲル宗教哲学』
山口誠一『ヘーゲルのギリシア哲学論』
伊坂青司『ヘーゲルとドイツ・ロマン主義』
高柳良治『ヘーゲル 社会理論の射程』
・「ヘーゲル研究のスペシャリストによる多年の研究の集大成であり、間違いのない解釈が示されている」とまで書かれている。この書きぶりを上記の書と比較するに、裏付けのある手堅い研究なのかもしれない。
特に、法学プロパーの人間の興味関心からすると、高柳良治の著作が法の哲学に焦点を絞って論じているようなので、たいへん気になるところ。

熊野純彦『ヘーゲル――<他なるもの>をめぐる思考』
・「日本のヘーゲル研究が今日到達した最良の成果であると言えよう」と非常に高く評価されているみたい。ここまで言われると凄く気になるのでチェックしたい。

納富信留『プラトン 哲学者とは何か』

納富信留『プラトン 哲学者とは何か』(日本放送出版協会)を読了。
本書は玉石混交なれど基本的にはよくできているといって良い、「シリーズ哲学のエッセンス」の中のプラトン編。

プラトン―哲学者とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)
プラトン―哲学者とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

実を言うと、読む前は不明瞭な議論に終止するのではないかとか、イメージ中心の中身の無い本なのではないかという不安も捨てきれなかった。

しかし、本書を一読してまず思ったことは、意外にも「言葉」を非常に丁寧に扱っている、ということだ。ロゴスの丁重な扱いによって、議論がとても明瞭になっていると思う。

その点だけでも非常に価値のある一冊だが、本書の魅力はそれだけではない。

プラトン哲学のエッセンスを、彼がいかなる問題に取り組んだのかについて、プラトン自身を取り巻く状況だけでなく、文化的・時代状況をも視野に入れて考察している。

こういう歴史的背景・文脈の理解なくして正確な哲学的理解は難しいと思う。その意味で、この方針は至極真っ当であり、正当でもある。

当時は激動する混沌とした現実に対して目をそむけるような、「価値」の懐疑主義や相対主義が蔓延っていたこと(ある意味、現実追認的ともいえるかも)。

それに対してプラトンは現実から目をそむけることなく、言語分析的な手法で「価値」が「ある」ことの確実性を示し、むしろ揺れているのは普段我々が現実だと捉えているこの「現実」の方であることを明らかにする。現実分析の規範となる「価値=言葉の意味=イデア」そのものは不変であり、ただそれを適用する対象たる現実の方が揺れているだけなんだ、と。

こうしてみると、ある種の皮肉な転換が行われているのがわかる。懐疑主義・相対主義者の方が「現実性」については保守的な見解をとっており、プラトンの方が「現実性」に対してラディカルな見解を示している。

しかし、プラトンの言うように「価値」が一定であることがあるからこそ、言語使用が可能となり、故にロゴスによる現実の認識・分析が可能になるという逆説的な状況があるわけだ。その意味で、プラトンの議論は非常に地に足がついているとも言える。

現在の相対主義が現実分析の能力を失ったり、不注意な意味の一定しない言語使用を行っていることを考えると、非常に示唆的だと思う。

>> プラトン―哲学者とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)