レヴィナスのイリヤを読みはじめたら、いきなり気になることが出てきた。
「実存する(exister)という動詞の空洞に身を乗り出すとき、思考はいわば目眩に捕らわれる。実存するという動詞については、何も語れないように見えるし、また、この動詞の知解可能性はその現在分詞たる実存者(existant)、実存するものにおいてのみ得られるからだ。」
「空洞に身を乗り出す」とか、「目眩に捕らわれる」とか、哲学以外の研究者が書いてたら苦笑いしそうだけど、まあそれはともかく。
「動詞」とか「現在分詞」とか言っているけど、ここで論じられているのは「実存する」という動詞や「実存者」という現在分詞といった言語表現そのものではなく、その表現が意味している言語外部の事態についてだよね、明らかに。
なぜなら、言語表現そのものについて語っているのであれば、「実存する」という単語については「何も語れない」とはいえないだろうし(単語の由来でもなんでも、語れることはいくらでもあるだろうし)。
ってことは、レヴィナスはここで、言語表現とその意味とを区別せずに用いているわけだよね。今論じているのは「動詞」でも「現在分詞」でもなく、その意味する事態についてなんだから。
もしこの理解が正しいとして、レヴィナスは本当にこんな荒っぽい思考方法をしているのだろうか。この点が気になってしょうがないんですよ。
いやだって、「使用」と「言及」の区別って、言語哲学やる上で必ず叩き込まれることでしょう。後輩がこの区別を無視したりしたら、「学部生からやり直せ」って言っちゃうよ、マジで。クワイン先生も真っ青だよね。
そんな単純な区別を本当にレヴィナスほどの著名な学者が見逃していたのか、ということです。翻訳の方に問題があった可能性もあるかなと疑っています。
単に翻訳が悪かったのか、それともレヴィナスはこういう正確な思考に興味がないアレな哲学者なのか。わかっていてあえて混同している可能性はないと思います。もしそうなら哲学的に不誠実な人間ということになりますからね。さすがにその解釈は無理筋でしょう。
ということは、やはり翻訳の問題か、あるいは本人が両者の区別を(少なくともこの場面では)混同しているのですね。前者なら翻訳者に対してちょっとガッカリですし、後者ならこの論文の議論が疑わしくなります。
いずれにせよ、こういう正確な思考が要求される場面では、大陸系の哲学者であってもこういった分析系の仕事について通暁している必要がありそうですね。