ハイデガーの『存在と時間』の翻訳は非常にたくさん出ています。そのため、門外漢にはどれがいいのかわかりにくいです。
そこでこの記事では、どの翻訳が良いのかを調べてみました。
結論から言えば、細谷貞夫訳は専門家からも評価が高いので安心して読めますが、現代的で読みやすく訳語の正確性も高いのは高田珠樹訳です。
細谷貞夫訳『存在と時間』:木田元先生のお墨付き
まずはちくま学芸文庫から出ている細谷貞夫先生の翻訳への評価から。
実は木田元先生の『闇屋になりそこねた哲学者』(ちくま文庫)に、細谷貞夫先生について興味深い記述があります。
P.119
「話があちこちとびますが、先生と言えば、細谷貞夫さんと最初に会ったのは、ぼくが大学院に入った年でした。」
P.121
「細谷さんは小児麻痺で足が少し不自由な方でしたが、頭はカミソリのようにシャープな人でした。細谷さんが北大の紀要に書いた「ハイデガーの思索とニヒリズムの転回」という論文などは本当に絢爛たるものでした。おまけに、皮肉を言わせると、相手が泣きたくなるような辛辣なものでした。まわりの人はたまりません。」
細谷貞夫先生は、やはり頭のキレは抜群だったのですね。しかも辛辣な皮肉を繰り出してくるとは、まさに絵に描いたようなインテリのイメージです。
もっとも、その皮肉は半端じゃないらしく、「泣きたくなる」なんてレベルじゃなさそうです。上記引用部分のすぐ後に、こう続きます。
「ぼくの友人でその頃東北大にいたのが、夜中に酔っぱらってぼくのところに電話をかけてきます。大学でだいぶ細谷さんにいためつけられるらしく、「明日の朝、あいつを殺してやる」と、一時間くらいわめいていました。」
いくら酔っ払っていたとはいえ、尋常じゃないですね。そこまで強烈な皮肉って、想像も出来ません。
ちなみに、木田先生自身は、皮肉を言われかけた時に毅然と対応したところ、その後一切皮肉を言われなくなったとか。
先生曰く、
「返事次第ではぶん殴ってやろうと思っていましたから、これはいかんと思ったのでしょう。」
とのこと。まあ、この本に書かれているように木田先生は非常にタフな経験をしている方なので、下手に手出しできない凄みがあったのでしょう……
閑話休題。
細谷貞夫先生はこんな性格の方だったようですが、最初に書いたように頭脳の方は冴えまくっていたようです。木田先生が細谷先生を賞賛する箇所はこの本の中でも散見されます。
「といっても、ぼくにとっては、細谷さんの、ハイデガーの『存在と時間』(ちくま学芸文庫)や『ニーチェ』(平凡社ライブラリー)の翻訳はほんとうにありがたいものでした。この人の翻訳は実にみごとで、ラントグレーベの『現代の哲学』の翻訳(理想社)など、ぼくたちにとってお手本でした。」
木田先生の他の本でも細谷先生翻訳の『存在と時間』を賞賛する文章が出てきます。
明らかに、木田先生はちくま学芸文庫の細谷貞夫訳『存在と時間』をベストだと考えているようです。
プロの目から見ても優れているのであれば、やはりこれが一番良い翻訳の本命、ということになるのでしょうか。
高田珠樹訳『存在と時間』:読み易さと訳語の正確性が秀逸
専門家である木田先生のベストを選んだあとで、あえて本書を取り上げるのには2つの理由があります。
まず、訳語が熟考されており、現代日本語として意味が通るよう配慮されていること。
ドイツ語単語を漢字に無理やり置き換えるのではなく、言葉のニュアンスやハイデガーの意図をうまく伝えられるように訳語選択に配慮している様子が訳文から伝わってきます。
巻末には訳語解説も付けられているので、「なぜこの言葉を選んだのか?」「そもそもこの部分はどう解釈しているのか?」などの疑問が浮かんだ際も安心です。
そしてもう一つの理由は、高田珠樹先生が現代思想の冒険者たちシリーズのハイデガーの巻を担当なさっているので、どんなハイデガー理解のもとで本書を翻訳したのかが明瞭なことです。
翻訳者のハイデガー解釈がどのような立場であるのかは、当然『存在と時間』の解釈にも影響を及ぼさずにはいられません。そこを理解するための手がかりが十分に与えられているのは、この翻訳の大きなアドバンテージだと思います。
あとは事項索引が充実していることも地味に嬉しいですね。
こういう理由から、読み易さと正確性の両立という意味では、高田珠樹訳がもっともバランスが取れていて一般的に勧められると私は思います。
ただし、値段は倍くらいするので、予算との兼ね合いも考えましょう。
まとめ
長くなりましたが、私の結論はこうです。
- 細谷貞夫訳は、専門家である木田元先生が認めた質の高い翻訳。
- 高田珠樹訳は、日本語としての読みやすさと正確性が両立している翻訳。
- 一般的には高田珠樹訳がおすすめ。
異論反論あるかと思いますが(無い方がおかしいガバガバ記事)、まあ一つの意見だと思ってください。