評価規範が名宛人なき規範だとは、論理的には限られていない。
それは人間に対してこれこれの状態をこのように評価せよと命じていると解釈できる。その場合、「規範」の意味に、命令が含まれていることになる(規範はすべて、ある意味で命令規範。ただし、いわゆる「評価規範/命令規範」の対立軸とは異なる抽象度の話。要するに、評価命令か結果回避命令かということ)。
この場合、評価者と独立に規範的評価が存在しないことになるから、規範的評価についての反実在論とも言えそうな気がするw
このように解しても、現実として規範が常に人間とともにあることを考えれば、矛盾は生じないかと。
ちなみに、これは裁判規範という意味ではない。評価規範の名宛人は裁判官だけにとどまらない。自己の行為を選択する前提として、その法的評価を意識する行為者はいくらでもいる。評価規範であることと裁判規範であること、判断資料の基準時などの問題は、独立した別個の問題である。
もっとも、通常「評価規範」を持ち出す論者は、端的に名宛人なき「評価規範」を認めているように思われる。あるいは、命令ではない評価規範を。というのも、行為者の認識を基礎にしないと命令に従う可能性は確保できないので、不可能を命じる可能性を排除できないから。しかし、それは行為者ごとの違法評価になるので、人的不法論に接近するわけで、物的不法論者はそういう理解をしていないよね。
まあ、戯言ですが。