井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社学術文庫)を読了。文庫で読めるビザンティン帝国の通史というのは割と貴重だと思う。内容もビザンティン帝国の独自性をうまく描写しており、私のような門外漢でも興味深く読めた。
ビザンティン帝国について少しでも興味を持っている人ならば、きっと面白く読めると思う。
以下、個人的に思ったことをつらつらと書いていく。
本書を読んでいたら、コンスタンティヌス帝のキリスト教国教化の動機について書かれていた。一言で言えば、信仰の内容そのものが、支配者にとって都合の良いものだからというのが国教化の理由だと。そういえば、苫米地英人も『現代版魔女の鉄槌』の中でこのことについて論じていた。
マキャベリストとして描かれるようなコンスタンティヌスの人物像や現実的な行動からいって、統治に都合が良いからキリスト教を国教化したという理由は極めて説得的だと私も思う。東アジアで儒教が優勢になった背景には明らかにこれと同じことがいえるだろう。
宗教と政治は切っても切れない関係にあるのだということを再認識した。
我々現代人は、とかく宗教と現実の政治を切り離して理解したがる傾向にある。政教分離(これ自体が各国によって内容の異なる概念であることを、多くの日本人は知らないのだが)について歴史や政治経済の授業で習っていることもその背景にあるのかもしれない。
現代社会においても宗教は政治的に大きな影響力を行使していることは明らかだ。それは別にイスラム教だけにとどまらない。アメリカが宗教的な国家であることは、おそらく普通に読書している人なら常識だろう。
しかしそうした目に見える宗教の影響にとどまらず、世俗権力者は宗教をうまく利用して世俗の権力を高めようとしてきたわけだ。「国教」という概念はまさにそうした試みの産物だろう。
日本もこの例に漏れない。
最近、必死になって道徳教育の再興を主張する人々がいる。「道徳」は、実はモラルの訳語ではなく儒教の用語であることがポイントだ。
そして儒教は、統治のために極めて有効=国民の自由を束縛する為政者に都合の良い内容だからこそ、東アジアに広まった考えなのだ。
政治権力者が道徳を持ち出すとき、儒教思想を介して国民を隷属させようという意図がある。そのように理解すべきだろう。