斎藤兆史『日本人に一番合った英語学習法―明治の人は、なぜあれほどできたのか』を読了。本書は単行本で出た後、2006年に祥伝社黄金文庫へ収録されたみたい。
率直に言って、あまり感銘を受ける本ではなかった。私にとっては違和感のほうが強い本だった。
そういうネガティブな感想を聞きたくない人は、この記事をスルーして欲しい。
日本人に一番合った英語学習法―明治の人は、なぜあれほどできたのか (祥伝社黄金文庫)
まず本書は、日本人の中にも有名な英語使用者がいたということや、彼らがどんな勉強をして英語を身につけたのかについて述べている。そして、最近の口語会話重視の英語教育に警鐘を鳴らしている。
基本的に、私も母語も身につかないうちから幼児教育など愚の骨頂だという論旨には大賛成だ。幼少期から英語漬けの環境におかれたため、日本語を忘れてしまったり日本語力が著しく落ちてしまった明治人が本書では紹介されている。この点は一読の価値ありだと思う。
特に、あまり細かいことを考えずに子供に早期英語教育を施そうとしている人は、この危険性をしっかり理解しておくべきだ。子供の一生がかかっているわけで、失敗したでは済まない話なのだから。
しかし、日本人の英語学習で一番重要なのは伝統的な文法学習と構文解析による読解だというのは異論も多そうだ。もっとも、学術書や英文学の翻訳を見ていると、恐ろしいまでの誤訳が横行していたりするので、専門文献の翻訳などについて言えば著者の主張には賛成できるなと思う。
しかし、それ以外の目的での英語学習については、なんとも言いがたい。英語力の基礎は国語力にあるという話は、翻訳目的という視点から見ればそのとおりだと思うが。翻訳できなければ英語力がないというような立場に違和感を覚える人は多そうだ。
極端な話、海外旅行でショッピングを行うとか、愚にもつかない会話を楽しむとか、そういう目的で英語学習している人にとって、「翻訳できなければならない」なんて高すぎる要求だろう。
そして、多くの日本人にとって、英語学習の目的はその程度のものだ。
もちろん、正確なコミュニケーションが必要だとか、英語で情報発信する目的の人にとっては、文法学習などは重要だろう。
しかし、それ以上に重要なのは語彙ではないかと私には思われる。この場合の語彙とは、日本語への翻訳ではない。意味論および語用論的なものだ。翻訳は意味ではない。