最近、カール・シュミットについて少し気になることがあって、和仁陽『教会・公法学・国家 初期カール・シュミットの公法学』を読もうと思ったのですが、Amazonなどでアホみたいな価格になっていて困りました。
東京大学出版会
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なんで8400円の本が10万円になるのか、出品している人間に聞いてみたい気がします。
それはともかく、この本がどこかに売ってないかネットで検索してみたところ、長尾龍一先生の「蘇えるビヒモス――シュミット再読――」という文章を発見しました。
和仁陽先生の天才ぶりについては様々なエピソードが有り、茂木健一郎も各所で絶賛しているために私も聞き及んでいたのですが、どうやら長尾龍一先生がシュミットの研究から離れた理由の一つに、彼の書を読んで「筆者(=長尾)のような俗人にはとても理解困難だと諦めて」しまったことがあるようです。これまた凄まじい伝説ですね。2ちゃんねるのコピペになりそうなレベルです。
しかし、個人的に気になったのですが、長尾龍一先生がこの本を読んでもわからないというのは、どこか理解することを拒んでいる側面があるのではないかという気もします。
もちろん、私の思い込みに過ぎないかもしれませんし、大変失礼なことを書いているのはわかるのですが……。少なくともこの文章で引用されたところはそれほど理解困難だとは思いませんし、むしろ長尾先生の方が概念を捉え損なっている気がするのです。
おそらく先生は「尊厳」という言葉を「人間の尊厳」のような未定義の倫理的な概念と考えているのではないかと思われます。
しかし、専制君主を論じる文脈で「尊厳」といえば、カントロヴィチが『王の二つの身体』で論じていたような、伝統ある政治的概念のはずです。つまり、歴史的に議論の積み重ねのある概念であって、断じて「感受性」が必要になるような概念だとは思えないのです。必要なのは「尊厳」概念の概念史的な理解でしょう(そういえば、シュミットとカントロヴィチは同時代人ですね)。
長尾先生は「理解力」などの、自分ではどうにもならない才能的な能力不足を嘆かれているようですが、必要なのは感性でも才能でもなく、単純な知識量・情報量ではないでしょうか。それは才能ではなく読書量が重要な領域だと思います(文献を読むための語学的能力は必要ですが)。
もちろん、長尾先生は法哲学の研究者であって、政治思想史などの専門家ではありません。ですから、こういった概念に親しんでいなくても不思議はありません。
理解できないことをすべて「自分の能力不足」に帰着させるのは、長尾先生の謙虚なお人柄なのかもしれませんが、それにしてもちょっと卑下しすぎなのではないかと思ってしまいました。
まあ、そもそも私の知識量なんて専門家の方々の足元にも及ばない訳で、そんな人間がこうなんじゃないかなと考えたとしても、それが正鵠を射ているとは考え難いですけど……
単なる戯言としてメモしておきます。
【追記】
投稿から数年経っているのに、なぜか検索エンジンから継続的にアクセスがあって驚いています。ニッチキーワードを狙った記事ではなかったのですが、結果的に競合が少なかったからでしょうか。