土屋賢二『哲学者にならない方法』(東京書籍)を読んだが、相変わらず語り口が最高に面白い。ツチヤ教授のエッセイは立ち読みでつまみ食い的に読んで済ませていたんだけど、毎回笑いを堪えるのが大変だった。まあ、だったら買えよって話だけど、数少ない哲学的な著作は持ってるので勘弁してもらいたい。
というか、この哲学書よりもエッセイの数のほうが多いような方が、なぜ哲学を始めたのかということに前々から興味があったので、この自伝的エッセイは非常に興味深く読めた。学生時代の寮生活の凄まじさとか、時代は違えど共感できる部分もかなりある。大学生になって、自己責任で何をしてもよくなったときの衝撃といったらなかったわ。
まあ管理人の自分語りはともかく、ツチヤ教授が音楽やミステリやドストエフスキーについて自分が感動した理由をひたすら分析するくだりをみて、やっぱりこういう執拗な追求ができる人こそ研究者にふさわしいよなと感心した。
印象深かった部分を引用。
「わたしが販売員の口上やミステリやマジックを好むのは、自分が想像する以上の可能性があることを知らされたときの驚きと快感のためだ。自分の限界を思い知らされるのがなぜそんなに嬉しいのかと言われるかもしれないが、この世界に自分の考えが及ばない未知の可能性が隠れていることほど心躍ることはない。思いもよらぬ可能性が隠れていればイルほど、また、隠れている可能性が想像を絶するものであればあるほど、この先、どんな可能性が待ち受けているのかと胸がときめくではないか。」
「どんな学問も、謎を解明しようとする。なぜ謎だと思うのか。それはどんな可能性を考えても説明できないと思うからだ。長年の研究の末に、自分が見逃していた可能性がこの世界に成り立っていることに気づくと、飛び上がるほどの喜びを味わうことができる。この喜びは、販売員の口上やマジックやミステリから得られる快感と同じものだ。だから学術書を読んでも、これらと同じ快感を味わうことがある。」
こういったツチヤ教授の考えには全力で賛同する。今の自分の想像限界を超えた可能性ほど素晴らしい物はない。未知に対する好奇心こそ何よりも尊重すべきことだと思う。そしてこれを満たせるのなら、ミステリーだろうと学術書だろうと本質的に差異はないと思う。言い換えれば、一流の学術書や論文は一流のエンターテイメント作品に勝るとも劣らないほど面白いのだ。
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